学校をやめるまで 3

 

 

夏休み前、学校へ申し出ました。

試験もまともに受けず、単位を習得するのが困難だと母と協議した上で決めました。

 

一般受験生は二学期までで単位習得は済みますが、三学期まで登校すれば卒業はできるよ、と夏休みまでに考え直しなさい。

 

と言われ、ひとまず夏を過ごしました。

鬱で引きこもりでしたので、どうやって夏を過ごしていたかあまり覚えていませんが、蝉の声がいやでいやでシャッターを締め切り、真っ暗な自室でひたすらいました。

 

 

周りに辞めることを伝え、また私は見栄をはり、大検とって大学進学する!

と大口叩いていました。

実際、その予定だったんですけどね。

 

 

ついに退学届けを提出するとき、校長や理事長?まででてきました。

 

どうでも良い余談ですが、校長は猫に対してすごく優しい方で、病気の猫を何匹も引き取っては最期まで面倒を見るという動物愛護の観点からすれば素晴らしい方です。

一つ忘れられないのが、猫のかおを見て、貴方は早慶上智並のお顔ね、と仰ったことです。それで人間の何が計れるかと聞かれたらなにも、、と答えますけどね。

 

 

担任、学年主任、校長、理事長を対面に、私と母は座りました。

こういうときはこんなお顔なんですね、と担任に対して思いました、面談室での私との話の際、貴方はこんなお顔していませんでしたよ。

本当に私が不穏因子だと思っていたと実感し、先生方の最後の止めにかかったお話はよく覚えていません。

○○さんは優しい子で…と嘘つけ、今までの言い方とまるっきり違う言動に、私はじっとこらえていました。

はっ、と横を見ると母がとなりで泣いていました。

この子には父親がいなくて、代わりに育て上げてきたつもりなのですが…とそんな事を泣きながら、この人達に伝えなくてもいいのに、、

そんな辛い思いまでまた母にさせてしまった、と、私も思わず、この人たちの前では泣きたくなかったのに泣きました。

 

自業自得な、わたしの自堕落な学校生活がこの結果を招いた、最高の親不孝ものです。

しかもまだ親になにも返せていません、迷惑しかかけていません。

私に流れる父の劣性遺伝子は、母を傷つけました。

 

 

最後に学校を出るとき、担任は部屋を出た後まではついてきました。

親子、階段を降りて上を見上げると担任は、

それでは、さようなら。

と地下の下駄箱のある階にいる私たちに向かい、玄関のある一つ上の階から言い放つと、すぐに消えていきました。

 

忙しかったんでしょう、不穏因子の後片付けも沢山しなければなりませんからね。

 

母は、ボソッと、"外まで見送らないんだ…"

と言いました。

私は適当に、お腹すいちゃったー、なんて言いながら、そうです、そうなんですよ、と強く奥歯をくいしばっていました。

その後、靴をはきかえ、この学校の敷居を跨ぐ事はないことに安堵をし、母の運転する車で家まで帰りました。

 

 

さよなら、さようなら!